こんにちは。エネフィのおばあちゃんです。
学校の教科書にはのってない日本史の話。あの歴史上の人物がじつはこんな人だったとか、こんなエピソードがあるとか、私が「へぇ~、知らなかった」っと思った日本史の雑学や豆知識をご紹介します。
都市伝説もあるので、信じるか信じないかはあなた次第です。
コチラも合わせて楽しんでね!
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法隆寺の謎
聖徳太子が創建した寺院であると一般的には考えられているが、聖徳太子は謎の多い人物であり、実在しなかったという説もある。
法隆寺にある五重の塔は高さ32m、五重の屋根に一本の太い柱(心柱)が塔の先端に突き抜けている。
法隆寺に使われている木材は日本では建材として最高品質とされるヒノキであり、正しく使われたヒノキの建築では1000年を超える寿命を持つと言われる。しかし当時の建築家はこのような塔の建築は初めてと思われるだけに、ヒノキの知識と共に謎とされている。
そして五重の塔は今まで地震や台風などで倒れたことは皆無であり、心柱は塔の構造に直接関わっておらず一番上の相輪を支えているに過ぎない。各階が独立した空間を重ね合わせているため外力がかかっても分散して伝わり、やじろべえ構造となっているため階ごとに力がバランスしているのではないかと想像されているが、まだ完全には判っていない。
607年に聖徳太子が建立したとされ、聖徳太子創建のままであるという伝承を持っていた。しかし670年落雷により全焼したと「日本書紀」に記され、その後何時再建されたのかどの古文書にも記されていないという。
再建論、非再建論とあったが、現在では再建設が有力である。しかしそれならば尚のこと、一大建築である再建について触れられていないことが不可思議である。
江戸時代の浮世絵にスカイツリー
幕末の浮世絵師・歌川国芳が描いた作品に、スカイツリーを思わせる巨大な塔のような構造物が描かれている。
作品は「東京三つ股の図」。1831年(天保2年)ごろの作品とされ、隅田川にシジミ採りの舟が浮かび、手前には舟底をいぶす2人の職人が描かれている。絵の左奥、隅田川の対岸の江戸・深川あたりに、細長い構造物が2つ描かれている。
左側の低いものは当時現地に存在した火の見やぐらとされるが、その右の巨大な塔のような物は実在した建築物ではないという。
現在、この「東京三つ股の図」に描かれているのと同じ場所に立ってみると、まったく同じ位置にスカイツリーが立っている。
作者である歌川国芳は自分の命日も予言したとも伝えられており、国芳が未来を予見してこの絵を描いたのではないかと考えられている。
『 の』の問題
藤原道長(ふじわらのみちなが)、平清盛(たいらのきよもり)、源頼朝(みなもとのよりとも)。
ふりがなを見ると何故かついてる「の」。
日本史で出くわすこの「の」にはどんな意味があるのでしょうか?
「の」付きは氏、「の」無しは苗字
藤原道長、平清盛、源頼朝・・・彼らに共通することは、皆「の」付きの人物だということ。
「ふじわら」と言わずに「ふじわらの」、「みなもと」と言わずに「みなもとの」という具合に、姓と名前の間に「の」がついています。
ところが、鎌倉時代以降は「北条泰時」「足利尊氏」「織田信長」となっていって、誰の名前にも「の」が入りません。
「藤原」も「平」や「源」も、「の」が付くもののことを「氏」と言います。
これは、天皇から与えられた公式な呼び方です。
平清盛も源頼朝も「天皇から賜った氏である平」の「清盛」であり、「源」の「頼朝」なんです。
天皇から賜った名前は残してはおきながら、日常では別の姓を名乗っており、室町時代頃にはすっかり通常の苗字のほうの通りが良くなりました。
新田義貞も足利尊氏も源氏。
織田信長は平氏だったとか。
この時代以降になると自称源氏、自称平氏も増えてきて、家系の改ざんなどもあり、新たな問題が登場しますが、氏は自分の血筋を示すときに使用され、普段は苗字ばかりを使いました。
「の」の有り無しは、氏か苗字かの違いだったのです。
優しいイメージの水戸黄門。実は織田信長と似ていた!?
時代劇で有名な水戸黄門こと徳川光圀。
光圀は徳川御三家の一つ水戸徳川家の当主でした。
その彼が生きていた江戸時代から遡ること100年。戦国から安土桃山時代にかけて織田信長が活躍しました。自信家で頭脳明晰な戦の天才織田信長と、優しいイメージの黄門さま。
実は二人はとてもよく似ていました。
うつけ具合
若い頃の織田信長は、うつけ者と呼ばれていました。
信長は元服後も一向にそのうつけぶりが変わらず、あらゆる法や秩序を無視していました。町中を歩く姿は、若武者というよりはただの不良。半袴は虎やヒョウの皮をつないだもので、腰には火打ち石をいれる袋やひょうたん、朱色の鞘の太刀。ぼさぼさの髪の毛を茶筅(ちゃせん)のようにして目立つ赤や黄緑の紐でしばり、衣服は片肌を出して着ていました。また歩くときは、仲間の肩によりかかるようにして、栗や柿、瓜をかぶりつきながら歩いていたそうです。
少年・青年期の徳川光圀もうつけと呼ばれていました。
兄を差し置いて自分が水戸徳川家の当主にされてしまったことへの居心地の悪さと罪悪感からの反動でグレてしまったのです。光圀は女物の着物をぞろりとはおり、襦袢をちらつかせて仲間の不良青年たちと群れ、荒々しい振る舞いをしながら町を闊歩しました。恐喝、暴行だってしていますし、元服もしないうちから吉原などの遊郭通いも。刀の試し切りのために人を斬ったことさえある、かなりのワルでした。
武芸に優れていた
問題児信長の普通でないところは、乗馬、弓、鉄砲、槍、鹿狩り、鷹狩りなど、武術という武術は何でも来いという武術万能の才能。武将として必要な技量については申し分ありませんでした。
光圀は、背が高くて運動神経もよく、水泳もできたし腕力も抜群な上に性格も剛胆だったため、仲間の青年たちの間でも人気でした。
好奇心旺盛
信長は南蛮渡来の品々のビロードのマント、西洋帽子を愛用しました。また、早くから火縄銃の性能とその利用価値を理解し、鉄砲部隊を編成。地図、時計、地球儀など目新しいものへの理解も熱心でした。さらに、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが信長に謁見した際に連れていた、アフリカのモザンビーク出身の黒人の大男に興味を示し、彼を弥助と名付けて刀を与え、側近にしました。
一方、水戸光圀はチーズやギョウザなどを日本で最初に食べた人物とされ、オランダ製の靴下を使用、ワインを愛飲し、朝鮮人参やインコと取寄せたという新しいもの好き。蝦夷地への探索にも積極的で、探索のために雇い入れた黒人二人を家臣としました。また、明から亡命してきた儒学者を招聘するなど、偏見を持たずに新しいことへどんどん挑戦していく性格が表れています。
やっぱり似ている二人
信長は命を張った戦国武将、水戸光圀は水戸徳川藩で悠々自適に暮らしていた藩主。全然違うじゃないか、という意見もあるでしょう。
しかし実は、水戸光圀の残した書簡に光圀のホンネとも取れるつぶやきがあります。
「武家に生まれても今の世は泰平で武名を挙げることもできない。ならば、書物でも編纂すれば後世に名が残るかも知れないし」
これは、『大日本史』という史書の編纂について触れたものです。
「どうせ武芸で有名になれない世の中なら、本で有名になってやろう」という魂胆ですね。そしてその狙い通り、編纂された『大日本史』は貴重な史料となり、光圀の偉業として高く評価されています。
世が世なら、織田信長のような頭の切れる戦国武将になっていたかもしれない水戸光圀。やっぱり、どこか似たところのある二人だったようです。
豊臣秀吉がキリスト教徒を弾圧したワケ
はじめに
豊臣秀吉が仕えていた織田信長は、キリスト教を容認していました。
しかし、秀吉はキリスト教徒を弾圧します。理由はいくつか考えられています。
1、ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたから
2、キリスト教が拡大し反乱が起きるのを抑えるため
3、宗教的性質が日本に合わなかったから
今回は、3番目の宗教的性質について見ていきたいと思います。
豊臣秀吉がキリスト教徒を弾圧したワケ
日本人は昔から他国の文化に寛容です。
実際、仏教をうまく取り入れ、鉄砲や地球儀などの新しいものにも飛びつきました。
しかし、キリスト教はあまり取り入れられず、現在でもクリスマスにイベントをするくらいです。
キリスト教が取り入れられなかった宗教的理由は、3つ考えられます。
1、先祖崇拝の日本社会に合わなかった
「亡くなった親御さんのことを考えてみろ。今のお前を見てどう思う?」
罪を犯した人に対してこの言葉が有効なのは、日本人が先祖とのつながりを大事にしているからです。そのため、「キリスト教を信じれば、あなたは救われます」と言われても、先祖が救われず地獄に落ちるのでは意味がないと考えます。キリスト教の「信じたものは天国、信じなければ地獄」という考え方は、日本人の心には響かなかったようです。
2、一神教の考え方が日本人の宗教観に合わなかったから
キリスト教は、自らの神以外に神を認めません。神に並ぶものも神の上に立つものも認めません。これを前提に布教するため、「あなたの宗教は間違いだ」「それを信じていると地獄に落ちる」「地獄に落ちないためにキリスト教の唯一絶対の神を信じなさい」と説得します。すると、もともとあった神社仏閣を破壊することになります。日本には、八百万の神々も仏もいましたから、それを全て否定する宗教は根付きにくかったのでしょう。
3、キリスト教と国家権力が結び付きにくかったから
戦国時代や江戸時代。日本を実質的に支配していたのは豊臣秀吉や徳川家康などの武士でした。しかし、武士のうえにはいつも「天皇」の存在がありました。関白も征夷大将軍も、天皇から与えられた役職でした。これはちょうど、皇帝や王がローマ法王から戴冠されたことに似ています。仮に日本にキリスト教を導入した場合、ローマ法王と天皇の関係に整合性をつけられなくなります。そのため、国家権力とキリスト教は結び付かなかったと考えられます。
気になるエピソードはありましたか?
日本の歴史もちがった観点から勉強してみると面白いですね。
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引用:日本の歴史を分かりやすく解説!!
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